バイクで日本一周 26 広島県 原爆ドーム編

現在は広島県三原市道の駅に来ています。

 

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日本一周 25 広島県 移動編

 

今日はいよいよあの原爆ドームへ行きます。

 

 

ここから74キロです。

 

さて走り始めます。

 

 

途中、すき家で早めの昼食を採りました。

昼食を終えて原爆ドームに向かいます。

 

 

さて原爆ドームに到着しました……

 

が、ここで予想外の事態が起きまた。

 

原爆ドームには駐車場がありませんでした。

私はてっきり原爆ドームは、市街地から少し離れた郊外に有ると思っていましたが

原爆ドーム広島の市街地の中に位置していて

駅からすぐ近い場所に在り、地価が高い為か駐車場がありません。

 

私は一旦バイクを停めて、近くの駐車場を探したところ

市営の駐車場を見つけて、そこに停める事が出来ました。

広島市営基町駐車場

 

210円/30分(平日1,600円休日1,800円)

バイクの駐輪場代は1日200円。

 

無事にバイクを停める事が出来て、10分程歩いて原爆ドームへ向かいます。

始めて広島の地を踏みましたが、驚くほど発展しています。

 

路面電車がとても近代的です。

 

まるで都内のど真ん中に来ているようです。

 

歩いていると珍しいものを発見しました。

だしが売っている自販機です。

 

1本500円。

 

いよいよ見えました原爆ドームの象徴

 

 

広島県物産陳列館

 

あえて被爆した建物を取り壊さず、戦争の教訓として残しています。

 

日本は有史以来、世界で初めて核兵器を使用された国です。

 

貴重な歴史遺産を見て、原爆ドームの館内へ行きます。

 

 

日本の歴史は太平洋戦争を避けては語れません。

 

ちなみに私は大人になってから、世界史を学び直しました。

始めは何故勝てない戦争に日本は突入したのか、不思議でなりませんでした。

 

▼ 以下 日本の近代史解説

興味ない方は次の画像まで一気にスクロールしてください。

 

 

必敗の戦争に突入した日本の決断は、世界史の観点から見ると理解しやすかったです。

 

日本は当時、北にソ連という強大な侵略懸念が有り、国力強化を目的として領土拡大の為に朝鮮半島中国の東側を欲しがっていました。

 

そんな中、朝鮮半島で内戦が起こります。(甲午農民戦争1894年

日本は朝鮮半島の混乱に乗じて、侵略を試みるも

中国(※当時の清、以降中国)と対立して戦争になります。(日清戦争1894年

結果的には日本が清に勝利します。

 

その後、日本はソ連の南下政策で朝鮮半島の権益を巡って

今度はソ連と対立する関係になり戦争になります。(日露戦争1904年

 

この戦争は日本史では‶快勝‶と言われますが世界史的には‶講和‶です。

 

日本はその後、勢いのままに中国の東側に本格的に侵略を開始します。

そんな中、満州事変(1931年)が起こります。

 

日本は、事実上の日本の傀儡国家である満州国を中国の北東に建国します。

その後日本の関東軍と睨み合っていた中国軍との間で、衝突が起こります。(盧溝橋事件攻撃1937年

それをきっかけに(日中戦争1937年)に雪崩れ込んでいきます。

 

日本は中国北部、南京、武漢と侵略を進めるも

当初の日本の予想とは裏腹に、中国軍は重慶に軍事拠点を後退して徹底抗戦を続けます。

 

ここで日本の軍事戦略は限界となり、事実上の終点となりました。

 

この日中戦争に起因する、満州の建国、欧米列強と大きな対立を招く、引き金になりました。

 

アメリカは日本軍が駐屯しているの中国、インドシナ半島からの撤退、三国同盟の否定を要求します。(ハルノート

 

当時日本は軍事大国としてはアジアでは唯一、欧米列強の植民地支配を受けていませんでした。(タイ等の小国は除く)

 

ちなみに米英側が、日本が拡大を続ける植民地政策に対して、本気になったのが日本軍のインドシナ半島への駐屯です。

これによって当時の英国の根拠地であるシンガポール、アメリカ領であるフィリピン空爆範囲に入る事になり、それまでどこかで他人事だった日本の軍拡が、当事国になった事が直接のキッカケになりました。

これによアメリカは日本への全面禁油措置を発動して、開戦色が濃厚となっていきます。

 

そうして日本がいよいよ欧米列強と真っ向から戦う事になります。(太平洋戦争1941年

 

開戦を避けれなかった原因は、いくつかありますが

大きな要因に当時の軍部関係者の開戦の意向を、誰も止める事が出来なかった事が大きいと思います。

直近にクーデターを目論む515事件226事件が有り、暴力装置を持っている軍部には政治家たちも強く反対できなかった側面を感じます。

つまりはシビリアンコントロールの力が低下していたと言えます。

 

また軍部は自分たちの影響力を拡大する為に、戦争を推し進めたかった点が有ります。

 

1941年当時、日本が得ていた植民地である朝鮮半島、台湾、満州が在りました。

アメリカ側のハルノートには、日本軍が中国からの全面撤退を要求しており、日本は満州からの撤退によって、ソ連に対する国防力の低下を強く懸念したように思います。

 

当時は欧米列強ソ連日本、世界中が狙っていた中国の権益、その他アジアの植民地、それらの国々が互いの影響力を拡大する為に

軍事的にしのぎをを削って、国の取り合いをしていました。

 

結局日本は大敗してしまい、満州、朝鮮半島、香港これらの領土を全て失ってしまいます。

そしてアメリカの東アジアの拠点国として、生き残る事になります。

(※ 歴史観は様々な見方が有り、極力客観的な視点で見たあくまで私の勉強してきた歴史観になります。)

 

(歴史解説 終了)

 

 

いよいよ原爆ドームの中に入ります。

 

 

私の様に近代史に興味がある人間には、とても勉強になる内容が盛り沢山の内容でした。

 

 

75年前は世界中が当たり前のように、大国が小国を乗っ取っていました。

平和な日常の恩恵を再認識しました。

 

念願の原爆ドームを見終わって、今日の寝床探しです。

 

近くに利用できる無料キャンプ場が無いので、公園や道の駅に仮眠出来そうなスペースを探します。

 

しばらく走って道の駅にやってきました。

 

今日はここのベンチで仮眠します。

道の駅 上関海峡

 

 

今日の走行距離204キロでした。

 

 

明日は西側に歩を進めます。

 

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