さて現在は九州の熊本県氷川町の道の駅に来ています。
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今日から天草、島原と隠れキリシタン探訪の旅をします。
その為に拠点となる野営場を確保する必要があります。
天草に丁度良さそうな無料キャンプ場があったので、そこへ向かいます。
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ここから113キロです。
出発して途中すき家に寄って、早めの昼食休憩です。
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ニンニク牛丼
昼食を終えて、今日はまず無料キャンプ場に行ってテントを張ってから、隠れキリシタン探訪の旅をします。
ここからほど近い、若宮公園キャンプ場です。
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少し走って到着しました。
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若宮公園キャンプ場
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海が見える最高のロケーションです。
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ちゃんとしたトイレも在ります。
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驚いた事にここには海水浴客向けに
無料のシャワー設備がありました。
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有難く使わせて頂きました。
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さてさっぱりした所で、この辺りにテントを張ります。
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大きなヤシの木の下です。
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これで寝床の心配をせずに1日観光できます。
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ヤシの木の下のテント。
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中々味わい深い絵です。
これから天草キリシタン館へ行きます。
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ここから10キロと近いです。
15分程走ってやってきました。
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天草キリシタン館
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入り口には天草四郎のイメージ像が在ります。
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中に入って天草四郎の辿った歴史を勉強しました。
以下、隠れキリシタン解説
(不要な方は次の画像まで一気にスクロールしてください)
1549年にキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルが日本に来て
布教活動を開始しました。
その後日本では仏教から、キリスト教に改宗する人が増えていきました。
このキリスト教に改宗した人をキリシタンと言われていました。
しかし1614年に豊臣秀吉、徳川家康共に禁教令を発布してキリスト教は日本では禁止となりました。
しかし1度改宗したキリシタンは禁止になったからと言って、すぐに自分の宗教を捨てる事も出来ず、周りの人間にはキリシタンである事を隠しながら、キリスト教の信仰を続けていました。
この事から ‶ 隠れキリシタン ‶ という呼び名が生まれました。
その後、幕府は禁教であるキリシタンを見つけては、厳しい拷問や処刑等を行い、キリシタン排除を強めていきます。
そんな中1637年に島原半島の大名松倉勝家、天草諸島の大名寺沢堅高
の非常に厳しい年貢の取り立て、そしてキリシタンの弾圧と、2大名の統治に対して、農民の怒りは限界に達して当時16歳だったキリシタンのカリスマ天草四郎をトップにして、同年12月11日大名軍に対して一揆を仕掛けます。
以下流れは色々とありますが、農民たちは原城に籠城して徹底抗戦の構えとなります。
幕府側は何度か攻めるも失敗して、その後冷静に兵糧攻めの作戦に出ます。
2月28日補給も切れた農民たちは、すっかり弱って幕府軍に敗れます。
一揆軍の農民たち3万7千人全員が死亡するという、非常に凄惨な戦いとなり、こうして2カ月半にも及ぶ戦いは終わりを向かえます。
実はこの島原の乱(島原一揆)
政府と宗教団体の宗教闘争、という構造で話される事が多いのです。
宗教闘争の面も含まれますが、実際の主な動機は大名の農民に対する強烈な収奪、拷問、処刑、これらに対する農民の蓄積された怒りが、起こした聖戦です。
ただ大名を管轄する幕府からすると、大名の失態は幕府の失態と同義なので、市民の批判をかわすために
邪宗を罰した宗教闘争というストーリーにした方が、都合が良かった訳です。
つまりは歴史というのは勝者が作るもので、勝者の意向に沿ったストーリーが出来上がります。
解説終わり
私が隠れキリシタンに興味を持ったのは、キリスト教の禁教が解けた後もキリスト教に復帰せずに
隠れキリシタンという新たな宗教に成って、現在まで続いているという特異性が、とても面白いと感じたからです。
近くにキリシタン墓地が在ります。
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そして天草四郎の像。
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今日は念願の隠れキリシタン探訪の旅が出来て、満足した1日でした。
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